【DATA】
出版: 講談社 2023
書評時の状況: 初読/味読

本書は井上尚弥の本当の凄さを見つける冒険の書である

「プロローグ」から惹き込まれた。

著者は高校生の頃からボクシングの虜となった。後楽園ホールに足繫く通い、後楽園ホールから近いという理由だけで大学を選んだ。そして新聞記者というプロの物書きになることでボクシング観戦を職業とすることに成功した。

そんな人生をボクシング観戦と共に歩んで来た筆者であっても、「モンスター」の異名を持つ井上尚弥という日本史上最高のプロボクサーの強さをどうしてもうまく表現することができないというのである。

ちなみに、評者にとって今は “GOAT” の日本人を同時に3人もリアルタイムで観る幸福に浴している時代だ。その3人とは、野球の大谷翔平、将棋の藤井聡太、そしてボクシングの井上尚弥である。(大谷や藤井については別の書評で触れる機会もあろう。)
ただ、そんな私があれこれ言うまでもなく、井上尚弥がボクシングの絶対王者であるということは既に人口に膾炙した話である。

しかし筆者は、井上尚弥の何が本当に凄いのかを表現できない自分に気づく。
本書は、筆者がそれを手に入れるための冒険の書である。

敗者に光を当てることで井上尚弥の強さがわかる

我々はどうすれば井上尚弥の強さを理解することができるだろうか?

もちろん、映像を観れば彼が並外れたボクサーであることはすぐに分かる。
しかし、そのことを他人に、あるいは後の世に伝えていくためには言葉によって残さねばならない。

そこで筆者が採用したのは、井上尚弥と闘い、敗れ去ったボクサー達にインタビューをするという手法である。
井上尚弥という「光」はあまりにも眩しすぎる。ならば、敗者という影の部分にフォーカスすることによって光の存在を浮き彫りにしていこうというアプローチである。

はっきり言ってこのアプローチは、本書を他の追随を許さない「井上尚弥解説書」とすることに成功したと思う。

私自身の基本的なスタンスとしては、誰かの価値を測るにおいて、別の誰かと比較するということをよいアプローチだとは思っていない。
人間の能力なんて実はそれほど大きな差などないので、そのような小さな差の中で他人と比較することは極めて難しい話であるはずであり、様々なノイズやバイアスがある中でそれを客観的に実行することはあまり意味がないどころか却って害のある話となりかねない。

しかしながら、比較対象との差が絶対的に明らかである場合、偏差値で例えてみるならばプロ集団の中で偏差値90以上あるような存在の凄さを理解するためには、却ってその他の集団と比較することで際立たせる方が読み手に伝わるだろう。本書のアプローチはまさにこれである。

いきいきと語るボクサー達と井上尚弥の「人間交差点」

本書では井上尚弥とリングで拳を交わした10人のボクサーが登場する。いずれも高い能力や実績を有しており、極限状態のためされるボクシングの世界にあってはプライドも相当なものであろう。

しかし、そのようなボクサー達が井上尚弥と拳を交えた記憶について積極的に語る姿に驚かされた。

「知り合いから人を紹介されて『初めまして』の場面があるじゃないですか。元世界チャンピオンです、と言ったら『凄い』となるんです。でもね、その後に『井上尚弥と判定までいったんですよ』と言ったら、もっと驚かれるんです。世界チャンピオンより上なんですよ」

田口良一(本書122頁)

「一つ残念なことは、メディアは井上がリングの上で繰り広げていることをいとも簡単にやっているように扱ってしまうことだ。でも、決して簡単ではない、ということを分かってほしいんだ」

オマール・ナルバエス(本書196頁)

「今までたくさんの世界王者とやってきたけど、スピードは一番。パンチも一番。パワー、ディフェンス、フットワーク、リズムもいい。全部がバーンと抜けている。普通はパンチが上手い人はディフェンスが悪かったり、どこか欠けている部分がある。みんな井上君みたいな動きをしたい。僕だってそうしたい。でも、できないから今のスタイルになっている。だからボクサーの理想なんですよ」
(中略)
「僕と闘ってくれて感謝しています。世界で(フィリピン出身の世界六階級王者)パッキャオみたいに名前を売って、稼いでほしい。ボクシングって夢があるじゃないですか。それが僕の希望です。すごく楽しみにしています」

河野公平(本書334・335頁)

トップオブトップのプロボクサーが他のプロボクサーに対して憧れの念を抱いており、かつそのことを隠そうともしていないことが、何よりも井上尚弥の凄さを伝えるものとなっている。

そして、井上尚弥との闘いが彼らの人生に様々な影響を与えたことが明らかにされていることも本書の成果である。評者の好みで言えば、河野公平とノニト・ドネアの章が心に響くものがあった。

投稿者

uekkey1981

真に文明を創るのは権力でもテクノロジーでもなく人間の知性と教養の総和であるという信念があります。知性と教養を磨くために欠かせない読書の素晴らしさを伝えていきたいです。 あと、世を忍ぶ仮の会社員で2児の父だったりします。

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